ここでは私の昔の写真をご紹介したいと思います。
私は16歳で原付免許を取得し、しばらくして峠にハマってしまいました。
ですので某バリバリマシン等にもよく投稿していましたね。
私のハンドルネーム「ねぎのリーダー」も、当時の走り屋ネームそのまんまだったり(笑
…しかし私はカメラマンでしたので、自分の写真があまり無いという宿命がありましたが。
自分で自分を撮る事は出来なかったので、写りの悪い写真ばかりですがご容赦下さいね〜
私が初めて買ったスクーター、92年式スーパーDioです。
この時点ですでに峠にハマり2年程で18000km余り乗ってますね。
改造点は18パイキャブや、当時最速といわれたオクムラのスポーツマフラー等です。
…ステダンまで付いてますが(笑
タイヤは当時最新のMBR720(たぶん)です。
丁度この頃、某バリバリマシンで赤ゼッケンを獲得しました。
その時の94年頃の写真です。
このボディカラーは純正色なのですが、コレを選んだ所から私の「乗り物は青色」という…
青マニア道が始まった模様ですね(爆
ちなみに今だから言いますけど、Dioを買う時に最後まで悩んだ競合モデルが…
アクシス50だったんですよ(笑
もしもココでヤマハを選んでいたら、間違いなく今の私はありませんね〜
これが多分当時の仕様の写真だと思うのですが…記憶があいまいです(汗
パワーフィルターの自作空き缶カバーとかナポレオンミラー、アルマイトのバーエンドとかはまだまだ小僧っぽいですね(笑
…と言いますか今の私から見れば十分小僧の年代の時の仕様ですが(爆
アルバムの日付が93年なので、もうこの時から十数年経ってるのですね〜。ちょっとおセンチで(以下略
うーむむ。チャンバーはどうやらオクムラっぽくは無いですねコレ。
どうやらデイトナのスーパーブラック?の様ですが…
これはさすがに遅すぎてすぐに外した記憶がありますね。
この当時はまだまだお金が稼げていた時期で、何本もチャンバーを試してましたね〜
で、走りもだいぶこなれてきた頃の写真です。
ちなみにこのコーナーで60ちょい出てますよ。
後ろに写ってるのは「昔のお話」でおなじみ我が天敵みかんドラですね(笑
いやはや、コヤツとは何度も何度もバトルを繰り広げてましたよ〜
しかし当時最強と謳われた3YKJOGとの性能差には泣かされましたが…
って、10数年経った現在でも同じ悩みを抱えている私って一体(汁
この頃は峠に集まってくる人数も増え、スクーターにこだわって走る私達のウワサを聞きつけて、
チームに入れて欲しいという人も出て来て…だんだんマニアックな路線に走りつつありました(笑
もちろん来る者は拒まずで、スクーターが好きな人たちの集団といったモノを目指して突っ走って行きましたよ。
そしてこれは95年頃です。
ブルメタ&イエローファイヤー塗装が炸裂してますね(笑
チューニングはポート加工や24パイフラットキャブ、ベリアルのワンオフチャンバー等を使用していました。
この頃「野○ダム」で壁に激突し、3個目のフロント廻りでようやくディスクブレーキになりましたよ。
もちろん当時定番のG´フォークも付いてますね。
ちなみに普段の足でしたが混合仕様でした(笑
この頃は丁度ディスクブレーキへの換装を行ったかと記憶していますが…
ドラムブレーキのF周りと比べると重い上にキャスター角も寝てしまい曲がらない事曲がらない事(汗
コレに慣れるまでには結構苦労しましたが…それでも曲がらないのでリヤサスを285→305mmにしたという(爆
…もう街乗りではクイック過ぎて怖い位でしたが、セカンドマシンを買う余裕はもちろん無かったので、
ずーっとコレで乗ってましたよ(笑
上の写真よりは結構後の頃かと思いますが、マシンはこんな感じでしたね。
私年に2〜3回コケれば良い方のライダーでしたが、かなり転倒によるキズも増えてますね。
速度域が結構高かった峠を走ってたので、ひとコケのダメージは結構でかかったんですよ。
あ、タイヤは当時出たばっかのTT90GPを履いてますね〜
これ、ここから数年来は伝説となる名タイヤです(笑
しかしこのリヤサス長305mmだと、クランクケースカバーの路面とのクリアランスはすごいです(汗
当時は90/90サイズのハイグリップタイヤなんて無かった時代なので、3.50が履けるヤマハ&スズキ相手には
コーナーリングではつらいなんてモノではありませんでしたよホント…
特に負荷の大きい高速コーナーリングばかりの峠だったので、3.00しか履けないのはもう(以下略
当時はこれでもまだバンク角が足りなかったので、リヤの空気圧を2.2kgとか入れてタイヤをでかくしてたり(爆
それで当時はクランクケースガリガリで走ってたんですよね…今考えると本当に勢いがあったと思いますです。
街乗り兼用なのに当然スタンドなんてありませんし(爆
エンジンはもちろんリューターなんて持って無かったので、鉄工所で捨てる様なごっついヤスリを都合してポート加工を(略
Dioって排気ポートがちっこいので、素人加工でも明らかにパワーが出たのはびっくりしましたよ。
そしてこの時点で腰下は何個か交換していますね。私の運が悪かったのが、コンロッドが逝ったりもしました(泣
性能を追求するあまり、新品の腰上を組んで峠行ったとたん壊れる、なんて何度もありましたしね。
何度もDioを押して家まで帰ったり牽引して貰ったりしてると、さすがにサブのマシンが欲しいと思い始めました(笑
・・・これはかなり貴重な写真です。
Dioが街乗り不可能な程のチューン車になったので、普段の足として乗っていたNSR50です。
80用フォーク&クラッチ、87ダウン管、MBR710等を装備してました。
しかし物足りなくなり、TT90を履かせて攻めましたが(笑
(この峠は庵○裏です)
ちなみにギヤ付きに乗っている時は
「ねぎのリーダー」ではありませんよ(笑
と、そんなこんなで上手い出物があり、NSR50を安価で手に入れる事が出来ました。
もちろんこれに乗り換えるなど全然全くこれっぽちも考えず、最低限度のメンテとチューンだけ施して
今まで通りDioにお金をつぎ込みましたね(爆
毎日乗らずに済むといった意味合いでは、Dioに今までよりも細かなメンテを施す事が可能となり、
結果的にじっくりイジれる環境を手に入れました。
なのでデイトナセンターリブ68ccを試してみたりしましたが…リッター3500円のA747を30:1で使ったりと贅沢な日々に(笑
…さすがにそんな混合比だと、回して走らないとサイレンサーがベットベトになりすさまじい爆音でしたが(爆
で、この頃の私はDioに毎日乗らなくなったって事で、峠に行く週末には必ず駆動系を清掃してましたよ。
当時の周りの走り屋でこんなコトやってたのは誰もいなかったと思いますが、メンテの重要性をこれまで以上に
重要視してましたねホント。
…恥ずかしいので誰にも言った事無かったですが、今始めて告白しました(笑
もちろん、こういったマシンに対する向き合い方が後のレースシーンにおいても非常に役立ってくれてる事は
言うまでもありませんね。
で、たまにはカッコつけてみます(笑
この頃は峠遠征も色々行い、某バリマシ紙面にも多数掲載され、「走り屋」として一番勢いがあった頃ですね。
かっこ良く言うと全国に名を轟かせ(笑)各地に支部も出来…通信手段の無かった当時なので文通等を行い、色々な方とお話させて頂きましたよ。
走るだけでなく「交流」も行うのがこの業界では大きなウェイトを占めてましたね。
もちろん今でも同じですが、同好の士とお話しするのはやはり良い物ですので…
で、このカラーリングでの最後の方の走りがこんな感じですね。
だいぶフォームもこなれて来てますが、カメラマンだった私は人のフォームも研究したので…
「写真用」のカッコ良いフォームを作る&それで走るのはお手のモノでした(笑
といってもここの峠では70弱のスピード出てますが(汗
…今となってはこの一番お気に入りだったイデタチで某バリマシの「ゼロハン俺ハ」に掲載されなかったのが一番の心残りだったりも(以下略
…さすがに胸を張って公開出来る様な物ではありませんので密かに(汗
これは某峠の下りですね。
もちろんセンターを割ったり前車を抜いたりするのはご法度、一般車を煽ったり追い抜いたりするのも絶対厳禁でしたね。
この辺りは各地によって文化が違うと思いますが、そんな感じで走ってた峠のワンシーンです。
…チャンバーはグランドスラムかな?
これも某峠の下りです(笑
先頭を行くのがみかんドラ3KJ、2番手が私のDioで次が8号君の2JA、ちょっと遅れてるのが当時最新型で珍しかったライブの9号君です。
この頃はノーマルマフラー&ビッグキャブ仕様が流行った頃だったと思われますので音的にはちょっとイマイチ(以下略
ちなみに下りに減速帯が入れられた直後だったので路面はもうガッコガコですが(汗
そして丁度この頃…私の走り屋人生においてただ一度の「大怪我」をしてしまいます。
もうこの頃はノリノリでしたが…単独で走ってて調子に乗りすぎ、リヤが地面から直角に90度浮いてしまう程の
酷いハイサイドを喰らってしまい…
60オーバーの速度域から人間が真正面に向けて放り出され…
スリップダウンではないので対処する術も無く、そのまま右ヒザより激しく着地した上、アウト側の縁石に
顔面からモロHITするという最悪な転倒をしてしまいます。
しかも吹っ飛んだDioが縁石まで飛んでいった私の体に後から直撃し、本当に死ぬかと思った瞬間でしたよ…
ヘルメットがあるとはいえ、口の中は血だらけでしたし、ヒザの痛みの為もちろんすぐには起き上がれずに唸ってました。
しかしそこは若い体、痛みが引くと普通に家まで自走で帰ってしまいましたが(笑
もちろんDioはチャンバーが潰れマスクが吹っ飛び、何本目か分からないホイールもひん曲げましたが…
で、その後ですぐ仲間たちと一緒に町のゲームセンターまで遊びに行きましたが(爆
…そこまでは大したコト無いと思ってましたが、その日の夜中に比喩ではなく本気でヒザが炸裂しそうな痛みを喰らい…
もう足を曲げるコトも出来ずに即入院でしたね。
結果、ヒザから着地した事によるお皿のズレと靭帯の断裂で、全治2ヶ月とあいなりました…
人生初のギブスや入院生活でしたが、それは愉快な仲間たちとそれなりに楽しみましたが(笑
そして当初は切れたスジ(靭帯)をくっつけるのに、2週間待って内出血が引けば手術と言われてましたが、
いざヒザを開いてみるとなんとブチ切れてたはずの靭帯がその2週間で再生しかけという(爆
結局そのまま私のヒザは閉じられ、ギブスのままで2ヶ月固めて直しました(笑
ですがもちろん関節なので完治はせず、今でも右ヒザにはいくぶんのガタがあります。
特に激しい屈伸運動とかはダメなので、自転車とかほとんど乗れませんが(泣
その上、子供の頃田んぼに落ちておかしくなってた右足首も合わせ、右足の自由度が少し無くなってしまいました…
なので私、NSR50とかのポジションのきついバイクだとリヤブレーキが上手く踏めないのですよ〜
注意一秒、怪我一生、とはまさにこの事ですね。
もちろん自分の責任なので後悔はしていませんが、後の人生に大きな影響を与えた事件でしたねホント。
コレ以降、私結構守りの走りになって行きました(笑
と、ヒザが直ったら退院したその日に早速峠に出向く私ですが(爆
たった2ヶ月攻めなかっただけでは何も変わらず、感覚はすぐに戻ってきましたね〜。
もちろん足の方はギブスのおかげで筋力がかなり落ちてしまっていましたが、各部の感覚等は
全く問題なく走りを楽しめ、ああ、やはり自分はスクーターが好きなんだなと改めて思いましたよ。
…当時、怪我をしたのをきっかけに峠を止める人もいましたが、私はやはり中毒者な部類だった様ですね(笑
そしてこれが96年頃です。
この頃は峠よりもタイトでテクニカルなコーナーを攻めたくなり、駐車場を走り始めました。
エンジンはノーマルに戻し、足廻り等のバランスについて考え始めましたね。
・・・この紫メタリックは不評でしたが、このカラーの時にバリマシの「ゼロハン俺ハ」で一等賞を獲得したのが救いです(笑
「勝ち抜き」とまでは行きませんでしたが、スクーターの走り屋としては当時最高とも言える栄誉でしたね。
(バリバリマシン97年1月号ゼロハン俺ハ)
で、この辺でいきなり風味が変わってますが(汗
かなりおとなしめのイデタチになってますよね。
実はですね、ヒザが直ってしばらくして、大阪湾岸に遠征に出かけたのですが…
もちろんお目当ては湾岸系の水冷フルチューン車でしたが、そこで目にした「FN仕様」のノーマルスクーターに
まさに衝撃的とも言えるインパクトを感じたんですよ私達って(笑
もちろんハイパワー&スピードの湾岸系マシンもすさまじかったですが、某チームの方々はフルチューン車以外に
当時流行りつつあったFNマシンも所有していたんですね。
それが…私らの持ち込んだある程度の改造スクーターとタメを張るんですよ(爆
正直、レースやサーキットLVである地元の方々とはテクニックも比べ様の無い差があったのですが。
なんとまあ、それがノーマルベースのマシンとは本当にびっくりし、地元にもそういった風潮が流行る事になったんですね…
某みかんドラの様に当時出たばっかの3YK-JOGZRを購入したりしてたので、私もノーマル風なエンジンを載せてみましたが。
…軽量なGダッシュならともかく、鈍重なスーパーDioでは話にならなかったと言うのが本音ですが_| ̄|○
当時はライブもちょこちょこ浸透して来ていましたし、駐車場のジムカーナ勝負となるともはやスーパーDioと
「小回り」を知らない当時の私のテクニックではJOGやライブと3.50のコンビにはいくら頑張っても話になりません(泣
で、丁度90/90サイズのハイグリップタイヤが発売されたのですさまじい勢いで装着しましたが、それでもやはり(以下略
峠ではノーマル風味エンジンの性能を一杯に使ったコーナーリング勝負になるので、さほど差が出ないはずですが…
私の地元の峠ではコーナーまでが非常に長いストレートですので、これまたコーナー入るまでに差が出ます(笑
ギャラリーまで下ってくる頃にはもう私は前車にはかなり放されてしまっているので、はた目には遅いとしか見えないという_| ̄|○
ここは以前と同じコーナーですが、ノーマル風味の仕様では格段に速度が下がってしまいました(泣
写真の様に全然バンクさせずとも曲がれてしまうので私だけ24フラットキャブのみ装着しJOGとの性能差を埋めていましたが、それではなんかインチキくさいので…
結局吸気系もノーマルに戻すと洒落にならない性能低下となってしまい、リヤに3.50など履かせられるLVのパワーではありません(笑
で、写真では後ろの青いのが2号みかんドラで赤いのが3号ジャス君ですが共にJOGなので余裕満点以下略。
そしてついに…3.50をリヤに入れる手法も行ってみたりしましたがもう縦置Dioの色々な所に限界を感じ、一念発起して94ライブDio-ZXを購入しました。
…代わりに街乗りNSRがドナドナされましたが(泣
なおサーキットに頻繁に通い始め、レースを始めたのもこの頃です。
地元のサーキットに頼み込み、「FNクラス」を設けて頂きました。
この頃は峠&サーキット&レースを全て自走で頑張ってましたね〜
そんなこんなで長年慣れ親しんだスーパーDioには休んで貰う事にし、当時ホンダスクーターで最新型だった
ライブDio-ZXを購入しました。
もちろん最初期型である94年式の中古でしたが、これに95年式オイルダンパーを装着し最低限の運動性を
確保していましたね。
スーパーDioの方はフル街乗り仕様に変更し、チューニングはコチラで楽しむと言う事にしました。
この時点でスーパーDioでの走行距離はメーター4周近い約38000km(爆
フレームまで交換し腰下も何回も載せ換えていましたが…まだまだ愛着があるので手放しはしませんでしたね。
ちなみに今でも持ってますよ。
そして全然特性の違うライブに乗り換えると、エンジンパワーはそれなりにあるもののコーナーリング、
特にポジションの違いと3.50のリヤタイヤを履いているリヤ周りの旋回力に全く馴染めず、コーナーリング中に
シートから前にずり落ちたりして苦労しました(笑
しかし3ヶ月も乗るとだいぶ慣れ、峠ならばZRと同等の速度を稼げる様になり…リヤタイヤの旋回力を
生かせる様になってからは3.00や90/90で苦しんできたコーナーリングの旋回力を爆発的に発揮する事が出来、
腕そのものはめきめき上達し始めましたよ。
…今思ってもこのマシンチェンジの時が一番「伸びた」時だと思ってますよ。
このコーナーは結構な下りでRもキツくなってますが、速度は60を超えるコーナーです。
こういった負荷のかかる所では3.50とライブの安定感&重い車体をフル活用し、かなりのコーナーリングが可能となってますよ。
こればっかりは車体の違い、と言う物に感動しましたよホント(笑
もちろんJOGに乗った経験も幾度と無くありましたが、峠LVでもあの車体にはやはり馴染めなかった私なので、ライブは楽しくて仕方がありませんでしたね〜
そしてこの頃にはサーキットもかなりの頻度で走り始め、地元サーキットにFNクラスを設けて頂き、
仲間内で色々と走りました。
しかし地元サーキットはスクーターで走るという文化など皆無だったので、最初の頃は12インチに
意味の無い幅寄せをされたり無茶苦茶強引に抜かれたりおかしな因縁を付けられたり…
レースになると峠連中のお遊びとしか思われてないという、非常にキツい境遇ではありましたが。
もちろんコレを書いている現在ではそんな事は全くありませんが、最初はそういった経験もあった、と言う事で。
ちなみに私、今でもよっぽど速度差のあるSP車や「分かってる」人しかサーキットでも道譲りませんよ。
この忌まわしい記憶があるからってのもありますが、同じ走行料金を払ってるのに相対速度が遅いからって
わざわざ毎回避ける事なんて無い、と思ってますのでね。
おっと話がそれましたが(汗
サーキットという、「遠心力」を旋回力にほとんど変換出来ないタイトターンでは、いくら地元のカートランド四国の
コーナーが緩めだと言ってもかなりの練習になりました。
もちろん最初の頃は速度そのものには慣れているものの、ストレートからのブレーキング、「減速率」が
峠とは全く違った次元にあるという、一番難しい所のカベにもぶち当たりましたがね(汗
それは反復練習、そしてやみくもではなく「考えて走る」事を第一とし、ちょっとずつではありますが
細かなテクニックも上達して行きましたよ。
んでコレは上の写真のコーナーを後ろから撮ったワンショットですが…
速度が結構出ているのでケースカバーには余裕を持たせたバンク角を維持し、最大の旋回力を稼ぎ出す為にホールドしている外足以外はすべてイン側に荷重を掛けてます。
もちろん頭の位置はハンドルやガードレールより低く、体感速度はスーパーDioに乗っていた時とは比べ物にならない位の物がありましたね(汗
ちなみにこれでも目線はきちんと出口側を見ていますよ。?実際はガードレールしか見えませんがそこは慣れ(以下略
サーキットの経験でこんな感じの走りも出来る様になり、安定感も格段に増したのでライブに乗り換えてからは
峠で転倒した事は一度も無かったですね〜
もちろん激しいフォームに見えても上半身はリラックスしていますよ?
その代わり下半身には尋常ではない力が掛かってますのでサイドカバーとかのツメが飛んで外れる事もあります(笑
ちなみにこのツナギは自家塗装で(略
んで、この頃のマシンの方はこんな感じでしたね。
地元のレースには耐久レース等にも全部出ていましたのでゼッケン等は付けっぱなし、スタンドなんてハナからありません。
ライト等を現地で外し、サーキット用の駆動系を放り込んでそのまんま走行してましたよ。
あ、ホイールはアルミになってますが、さすがにサーキットだとちょっと滑らせただけでてっちんホイールがお亡くなりになるので…
そういえばタイヤは当時最新のMBR740ですね。IRC好みだった私はTT90よりもコチラを愛用してました。
この頃のFNクラスは駆動系の純正流用不可だったので、新品に近いおいしい物や練習用等、色々用途別に
何種類も駆動系を用意しておき、走る境遇によって変更してました。
少しでもへたれた物だと途端に性能低下の原因となるので、ヘタすると近年よりも駆動系にお金がかかってました(汗
今ではこの時から使ってるパーツはフロントカウルのみしか残っていませんが、基本的なデザインは継承されてますね(笑
そしてレースの世界に本気でハマり、トランポを買い装備も上から下まで一新してしまいました。
なのでこの頃はマシンも含めてピッカピカで綺麗(笑
ツナギは今でも同じ物ですが、一応コレセクレテールのフルオーダーなんですよ?
飽きが来ない様にシンプルなデザインと色使い、そして自分のイメージを前面に押し出せる物としました。
…もちろん無理の無い24回払いですが何か(笑
この写真はもう峠を走っていた時代としては末期の頃になりますね。
色々な理由によりこの峠はおおっぴらには走れなくなってしまっていましたので…
最終的には走りはもちろん地元では文句無い物でしたし、安定感や余裕の持ち方は峠のみを走ってた頃とは
全く比較にならない位のLVにまで到達していましたよ。
もちろん世の中上には上がいますが、地元の峠では以前あれほど苦戦したみかんドラのJOGと互角か
それ以上の走りも出来、私の峠人生数年間の集大成としては文句の付け様の無い物となりました…
この後はサーキットに走る場所を移しさらにスクーターを楽しみ&学んで行くのですが、今でも峠時代の思い出は
素晴らしい青春の群像として私の心に残っていますよ。
もちろん非合法な遊び、と言われてしまえばそれまでですが、もちろん正当化するつもりなどありませんので。
それにつけても、峠を介して知り合った仲間、友人は今でもかけがえのない物となっています。
ここには書ききれませんが…「昔のお話」にも少し紹介しておりますが、馬鹿な事でも何をやっても楽しかったという
色々な人生経験、自走遠征等や雑誌投稿、各地の方々と交流を持つといった色々な経験は
現在の私にも多大な影響がある事は間違いありませんね。
と、長くなってしまいましたが、「ねぎのリーダーの写真館」、いや私とDioとの軌跡、としてご覧頂けると嬉しいです(笑
現在でもサーキットにおいては16歳の頃と変わらずにJOGに苦戦を強いられていますが、それもまたご愛嬌です。
本当にスクーターって乗ってもイジっても楽しいと思ってますのでね。
今後とも変わらないスタンスでスクーターと付き合って行きたいと思っていますよ。